文系学者考

ご無沙汰いたしておりました(前記事に書いた状況に何の変化もないし、正直言って、延々と続く国内状況を”投げ”ておりました)。
 
日本のWEB版記事を”見て”いますが、産経のオピニオン記事に頷けるものが多いと感じています。最近、私の目を引いたのは、佐伯先生の「TTP交渉はなぜ危険か(11/21)」とか平川先生の「幻想振りまいた仏文の知的群像(11/24)」です。
 
 
 
理系研究者(実は教師でもあります)の身で日頃感じてきたことに基づいて、平川先生の文章を読んで感じたことを以下に述べましょう。
 
平川先生の言は非常に率直で端的で、仰っていることは、「③外国文献の購読・紹介(だけ)で生きている“日本国内だけで学者と称さている文系大学教員”は沢山いるが、①グローバル(好きな語感ではありませんが)に通用する“研究者であること(学者の必要条件)”を兼ね備えている人文系大学教師は日本においては稀である」ということだと思います。
 
明らかに、森有正氏は③です。①は前田陽一、仲沢紀雄(の才能に対して. ブレス氏が嘗て見た判断)といった方々で、②両者の境目(当世日本風にいうアンビバレントか)が渡辺氏でしょう。

 学者(上記定義)として①と③の区別は明らかです。①はグローバルに通用する学術誌・著作に研究成果を出していること、後者は、出していないこと(出せないこと・・と言った方が正確でしょうか?)です。
 
 Times Higher Education他のランキングで、日本の大学が、国内で思っているような位置付けにないことが話題に上っています。さる「教育ジャーナリスト=文系屋さん」は、したり顔で根拠の曖昧な評点だとか何とか言っているそうですね。馬鹿馬鹿しい! どういう評点をしたかについては、相当レベルで詳細に記述されているのですよ。多分この日本名物”ジャーナリスト屋”はそれも読んでいない(というより”読めない”)のでしょう。
 
 一方、理系はイヤらしいほどグローバル化して競争し、客観評価されており、日本は健闘しています。しかるに全体として日本の大学の位置付けが思うほどにない大きな原因の一つは、文系(人文・社会・経済・法律等々)の多くの先生方が、世界の方達が読み・評価・認める形(ex.仏文ならフランス語、無論、当節は英語でok)で、論文著作を出版していない(実はそれが出来る能力の人が極めて限られる)ことによっています。外国大学はそうではありませんのでね! 日本の学問は片肺飛行なのです。
 
 有り体に言って、日本文系大学教師連の「学力不足」に起因するとの話を方々から聞いてきました。客観データもそうなっています。では本物の文系研究学者の能力は?と思う方は Wikiで高津春繁先生を引いてください。このような本来の研究学者の方もいらっしゃるはずですが、日本のマスコミ・出版・読者状況では表に出て来にくい、といった伝統的状況も背景にあるのでしょう。何せ、科学技術立国なんてお題目、実態は「目指せ芸能スポーツ国家」ですからね!
 
 日本でたまに(物好きに)人文系(含むカブレやらモドキ)の方々の書かれた論評を見ると、「読むべきもの」は稀少と感じます。、明治時代の先学達が客観的な掛かり受け構造が曖昧な日本語を駆使して翻訳したドイツ哲学・社会学・文学の”調子”を、真似しただけの文章を未だにイヤと言うほど目にするのです。ネットですらそうです。
 
 ドイツ語の掛かり受けに関する文法的要素(性数格語尾変化等)の数は日本語の比ではないので、同内容の文章を、日本語の長文で然るべく延々と書きつづることはほぼ不可能であると思います。独ー英の比較でも英語の掛かり受けが問題になるのですからね。ご存じのように英語の方が客観的な掛かり受関係要素がすり切れています。
 
 日本で見るのは、「独語の日本語訳調」を悪用して人を煙に巻く文章です。実際、彼らの文章を英語や独語に翻訳することはまず困難です(限られた経験ですが・・)。以前は、そういった晦渋な馬鹿文をあちこちで見て、大笑いしていましたが、日本の現状にとって、実は深刻な状況なのかも知れません。この風潮が、国民・有権者として読み・咀嚼し・判断すべき基礎となる論や文を真っ当に読み書き出来ないようにしているからです。
 
話がそれました。
 
 戦後日本の悲劇は、上記②③が跳梁跋扈し、かつそれが「芸能スポーツ立国」的風土を通じて、一般的傾向の決定に大きく作用してきたことでしょう。